奈良芸術文芸サロン|歴史観光の佐保山茶論

奈良芸術文芸サロン|歴史観光の佐保山茶論
佐保山茶論概要
 
佐保山茶論
住所



代表
TEL
FAX
駐車場
〒630-8113 奈良市法蓮町856-12 << アクセスはこちら >>
※門前に万葉学者小野寛先生揮毫の 大伴家持万葉歌碑があります。
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※住所地に面する路は「歴史の道」として奈良市に指定されています。
岡本 昭彦
0742-26-5376
0742-26-5503
6台駐車可。催し開催時には近隣契約駐車場をご用意します。
 
佐保山茶論について

 佐保山茶論は平城宮跡東側のやや北寄りに位置する佐保山と呼ばれる緑豊かな丘陵の麓にある
芸術・文芸サロンです。佐保山の裾野は古代より佐保と呼ばれ、南には春日山に源を発する佐保川が東から西に流れています。佐保を東西に横切る一条通りは奈良時代の平城京の大路、一条南大路の面影を残している道です。奈良時代の佐保は高級貴族の邸宅、別荘地で、万葉の歌にも数多く詠まれた風光明媚な地でした。
 佐保山茶論の近くに奈良時代を代表する万葉歌人大伴家持、大伴旅人、大伴坂上郎女を輩出した佐保の大伴氏の邸宅があったと言われています。旅人の嫡男が家持、旅人の異母妹で家持の叔母が坂上郎女です。平城京から北九州の大宰府に帥(長官)として赴任していた旅人に石川足人が贈った歌が次の歌です。

さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君
石川足人(巻6、955)


 

 奈良時代、佐保の邸宅、別荘に風雅を愛でる風流士が集い、芸術・文芸を楽しんだことが伝えられています。日本最古の漢詩集「懐風藻」には長屋王の佐保の別荘「作宝楼(さほろう)」の詩宴 で詠まれた漢詩が多数収録されており、そうしたことがうかがえます。
 佐保山茶論はこうした伝承を現代の芸術・文芸サロンとしてクラシック音楽や邦楽の演奏、万葉 集や奈良の歴史文化の講義やそれらを題材にした芸術作品の上演などを行い、人と文化の輪を広げ ていければと考えております。

この世にし楽しくあらば来む世には虫にも鳥にも我れはなりなむ 
大伴旅人(巻3、348)

 敷地内には山荘風の「鶯鳴館」(おうめいかん)、「竹風亭」(ちくふうてい)そして茶室「知足庵」(ちそくあん)があります。

鶯鳴館 竹風亭 知足庵
鶯鳴館 竹風亭 知足庵

 竹風亭から眺める庭園は佐保山の山水が流れ入る小さな野池を中心に作庭したものです。

我がやどのいささ群竹(むらたけ)吹く風の音のかそけきこの夕へかも
大伴家持(巻19、4291)

竹風亭内   庭園風景
竹風亭内   庭園風景

 旅人亡き後、嫡男家持がまだ若輩であったため佐保の大伴家の家政をみていたのが旅人の異母妹で 家持の叔母の坂上郎女でした。この美貌の才媛は甥の家持に歌の手ほどきをしました。
 坂上郎女は佐保山茶論のあたりに住んでいたとの説があります。家持が叔母から歌の手ほどきを受けたのはその家であったかもしれません。
 折ふし佐保山茶論の庭を眺め、佐保山の山間にこだます鶯(うぐいす)の鳴声や、夕闇のなか、不意に霍公鳥(ほととぎす)のつぶやくような鳴声を耳にしたりすると旅人亡き後の家持と坂上郎女を想い、「家持や坂上郎女もこのような風情を味わっていたのでは」とつい天平浪漫の世界に想いをめぐらせてしまいます。

月立ちてただ三日月の眉根掻(まよねか)き日()長く恋ひし君に逢へるかも
大伴坂上郎女(巻6、993)
ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも
大伴家持(巻6、994

 万葉集ゆかりの佐保山に作庭された庭を眺め、時には天平びとに想いを馳せつつ、芸術・文芸が醸し出す豊潤な世界に浸るひとときをお持ちになられてはいかがでしょうか。

 
大伴家持万葉歌碑について

 大納言大伴安麻呂は平城遷都により佐保に大邸宅を構えたことで佐保大納言と称されました。安麻呂は平城遷都を遡ること38年前に勃発した古代最大の戦「壬申の内乱」の功労者で、安麻呂の嫡男が旅人、旅人の嫡男(安麻呂の孫)が家持です。
 安麻呂から旅人そして家持に引き継がれた大伴邸が現在の春日野荘・奈良県法蓮庁舎の地あたりにあったと推定されたのは万葉学者川口常孝先生です。発掘調査の結果、奈良時代の大邸宅があったことが判明し、その敷地は約260b四方あったと推定され、川口説を裏付けたような結果になりました。この大伴邸推定地の北辺は佐保山茶論から南へ直線距離で約50bの所です。
 また、佐保山茶論のあたりの古い字名が「坂畑」であったことから、旅人の異母妹で家持の叔母である恋多き女とも称される美貌の才媛万葉歌人大伴坂上郎女が住んだ「坂上の里」は佐保山茶論のあたりであったとの説があります。大伴邸との位置から正鵠を得た説であります。
 こうした奈良時代の佐保を知っていただくため、奈良市指定の「歴史の道」に面する佐保山茶論門前に大伴家持万葉歌碑を建立いたしました。

 歌碑揮毫者の小野寛先生は東京大学文学部国文学科卒、東京大学大学院修了。万葉集・大伴家持研究者で駒澤大学名誉教授、そして大伴家持ゆかりの富山県高岡市伏木にある高岡市万葉歴史館館長です。しかも奇しき縁と言うべきか、大伴家持の邸宅跡と推定される一条通りに面した現在の春日野荘・奈良県法蓮庁舎の地にあった旧制奈良中学から奈良高校に学ばれたのでした。

  佐保山茶論門前  
  佐保山茶論門前

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主碑(原文)
和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘓氣伎 許能由布敝可母
大伴家持 歌
副碑(書き下し文と解説)
我がやどの いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕へかも
天平勝宝五年二月二十三日 大伴家持が佐保の自邸で詠んだ歌である

揮毫者 駒澤大学名誉教授、高岡市万葉歴史館 館長 小野 寛
建立者 佐保山茶論 代表 岡本 昭彦
建立日 平成21年9月19日
   主碑石  国栖吉野川石  副碑石  宇陀産御影石

 歌碑の歌は天平勝宝5年(753年)2月、36歳の大伴家持が平城京佐保の自邸で春の愁いの心を 詠んだ「春愁絶唱三首」と称せられる中の一首(万葉集巻19、4291)です。

 歌にある「いささ群竹(むらたけ)」は「わずかばかりの小さな竹群」、「かそけき」は家持 独自の造語で、家持の心でとらえた「かすかな」と解されています。
  「春愁絶唱三首」はその2年前まで国守として5年間在任した越中(国庁は現在の富山県高岡市 伏木)で磨き育まれた家持の歌境の到達点ともいえる歌です。当時、官界の情勢は家持の本意と違った方向に動きつつあり、その現状を愁う家持の心境が「春 愁絶唱三首」に反映されているともいわれています。

 歌碑の庭は天武天皇ゆかりの吉野町国栖の吉野川に高見川が合流する風景を主題に
作庭。


 吉野は天智天皇の皇弟大海人皇子(のちの天武天皇)が皇位継承の難を逃れ一時隠棲していた地 で、吉野の国栖人が大海人皇子に迫った危機を救ったと伝えられています。(国栖には天武天皇を 祀る浄見原神社があります。)
 天智天皇崩御後、吉野から挙兵した大海人皇子に大伴家持の祖父大伴安麻呂ら大伴一族は命運を 賭けて味方し、この「壬申の内乱」の勝利に大きく貢献しました。勝利した大海人皇子は飛鳥浄御 原宮で即位して天武天皇になったのでした。この天武天皇の即位がなかったら大伴家の興隆も、家 持も、そして『万葉集』もこの世になかったかもしれません。天武天皇の皇統は奈良時代『万葉集』 の終焉まで続き、平城京は天武天皇の皇統を支えました。(天武天皇のひ孫が聖武天皇です。)

 歌碑の庭からまほろば大和の歴史が語り継がれます。

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